「海と毒薬」(遠藤周作)①

何度読み返しても戦慄を禁じ得ません

「海と毒薬」(遠藤周作)新潮文庫

戦争末期のF市大学病院。
その医局では橋本・権藤両教授が
権力を争っていた。
前部長の姪の手術に
失敗した橋本は、
名誉挽回のために軍部と接近、
米兵捕虜の
生体解剖を引き受ける。
研究生の勝呂と戸田にも
参加せよとの声がかかる…。

何度読み返しても
戦慄を禁じ得ません。
戦時中に起きた実際の事件をもとに
遠藤周作が描き上げた、
昭和文学の問題作にして傑作です。

生きている人間を
実験材料としてその命を奪う。
そうした非道な行為を、
本来人の命を救う
立場にある医師が行った。
極めて衝撃的な事件だと思います。

しかし本書が
読み手の背筋を寒くさせる理由は
凄惨な事件を
描出していることではありません。
震撼の本質は
「自分もその場に立ったとき、
その状況から抜け出すことが
できないのではないか」という
恐れなのです。

医局員・勝呂はなぜ
生体解剖への参加を断ることが
できなかったか自問します。
「言いふくめられたというのは
 間違いだ。
 たしかにあの午後、
 柴田助教授の部屋で
 断ろうと思えば俺は断れたのだ。
 それを黙って承諾したのは
 戸田に引きずられたためだろうか。
 それともあの日の
 頭痛と吐き気のためだろうか。」

医局という極端に狭い世界の中に
いたからということもあるでしょう。
その中で権力者に逆らわないのが
安全な生き方だということも
否定できません。
もう一人の医局員・戸田が
むしろ積極的に
加わろうとしていたことも
背中を押したかも知れません。
戦時中であり、
命の価値が軽んじられていた風潮が
感覚を麻痺させていた
可能性もあります。
相手が自分たち多くの日本人の命を
爆撃で奪った敵国戦闘員であることも
一因だったでしょう。
でも、いちばん大きな理由は
「その場の空気に流された」
からだと思うのです。

平和な時代に生きる私たちは、
本書を読んで
その異常性に嫌悪を抱くのですが、
では自分がその時代のその場にいたら、
果たして勝呂医師とは違った
決断と行動ができるのか?

その場の「空気」にながされず、
自分の意志で自分の行動を決断する。
その当たり前すぎることが、
日本の社会においていかに難しいか。
それを考えたとき、
本書に描かれていることが、
「遠い昔に起きた
特殊状況下での異常な出来事」とは
どうしても思えなくなってくるのです。
読み返すたびに「お前はどうなのだ」と
胸に刃物を突きつけられているような
恐ろしさを感じてなりません。

(2019.9.3)

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